まさかの日記

最近まともな文章しか書けなくなってきました

カテゴリ: > 読んだ

これ。
自分がタイプミスしたせいで成り上がり 矢沢永吉 - Google 検索だと1ページ目だもんな。

まさかの日記:矢沢永吉の「成り上がり」は糸井重里が作った
「成り上がり」じゃなくて「成りあがり」らしいですね。





どうやら空前のYazawaブームらしい。
元ネタはここかも。

Life is beautiful: ロックンローラーであれプログラマーであれ、自分の好きなことと仕事のベクトルを一致させることができたら誰でも矢沢永吉になれる
そこんとこヨロシク(ここは矢沢永吉っぽく^^)。



成りあがり How to be BIG―矢沢永吉激論集 (角川文庫)

タイトルは以前から気になってた。
二度の立ち読みを経て、ついに買ったった。


最近、自分の中の買いもののハードルがどんどん高くなるなあ。



それはさておき、最近のこの閉塞感(?)を何とかしたい。次の展開を考えたいが材料が無い。という感じだったんだけど、読んでみてちょっとすっきりしたので。
724円分の元は取ったかも。

まあ騙されたと思って、読んでみ。

パラダイス鎖国 忘れられた大国・日本 (アスキー新書 54) (アスキー新書 54)






個人的には、強迫観念に近いプレッシャーを自ら生み出して、強制的に自分になにかをさせるにはどうしたらいいか?というようなことを最近考えてたんだけど、それってどうなんだろ。とちょっと思い直した。

でも本人的にはようやく準備期間に入って、これからそろそろ本番へという感じなんだけど。

続きを読む

新フィアット500(チンクチェント)のハンドリングがマツダデミオよりも下だとしている。さすがだ。

AUTOCAR > 今月のオートカー 2008年4月号 vol.59:ホビダスbyネコ・パブリッシング
オートカージャパン59号 (2008年4月号)
2008年2月26日発売



自動車評論家が書く提灯記事の中に時々現れる本音を読みたくて購読(立ち読み)しているようなもん。

今の興味は、清水草一がフィアット500に対して何と言うか、という点。



フィアット500は一種の踏み絵だ。

その前の踏み絵は、GTRの外見デザイン。

GTRのデザインについて、どうのこうの言う記事が無くなってきた点も興味深い。そういう空気なんだろうな(車評論業界的に




ちなみに欧州車で今良いと思えるのは、パンダ、ピカソ、C30あたり。

C30はもうちょっと値下げしたらすごく売れそう。
高くなりすぎたVWゴルフの穴を埋めるのはVOLVOしか居ない。
この穴はイタリア車では埋められない。というか棲み分けが出来ているので。



そういえば某氏のクルマ、助手席の窓が閉まらなくなるというトラブルが発生中。さらに任意保険が切れていることが判明。あーあ

今週末のイベント、場所が不便だから車で行きたかったんだけどな。。

たまには書評しろと言われたので書く。


この本、意外とテレフォニー系とかマーケティング系の話題があって面白い。
そういう読み方もアリかも。

ていうか、この時代の人ってインターネットFAX(誰だろ。ガズーバの人かな)だったり、InterQだったり(現GMO)、結構電話系の技術ベースで、まず一発当てる、っていうのが多い気が。


もちろん普通に読んでも面白い。アマゾンの書評にも書いてあるけど、貸しはがしのリアルな話とか。

その後どうなったのか、続編もあるみたいだから読んでみたい気もするけど、書評ではイマイチっぽいからどうするかな。


社長失格―ぼくの会社がつぶれた理由

重要で価値ある仕事をやりとげ自己実現に至ることは、人間が幸福に至る道であると言ってよいだろう(このことは、幸福を直接追求するのと比較してみれば、よく理解できる。幸福とは、何かに伴って生じる状態であり、副産物なのだ。直接求めるものではなく、よき行いに対して間接的に与えられる報酬なのである)。

(中略)

あるいは、単刀直入にこう言ってもよい。救済とは、自己実現をもたらす仕事や義務の副産物である(困ったことに、私の周囲にいる若者の多くが、自己実現を稲妻の一撃か何かのようにとらえており、ある日突然頭上から降りかかってくるものだと誤解している。皆、自分では何の努力もせず、稲妻の一撃をじっと待ち受けていたいという様子なのだ。自己実現は、ごく自然に突如として達成されるものであり、抑制や統制とは無縁のものだと決めつけている。私が我慢ならないのは、主にこの点、つまり、彼らが不屈の精神や粘り強さ、挫折に耐える力を全く備えていないという点なのである。彼らは、こうした能力が自己実現の対極にあるものと考えている。

(中略)

仕事を通じての自己実現は、自己を追求しその充足を果たすことであると同時に、真の自我ともいうべき無我に達することでもある。自己実現は、利己ー利他の二項対立を解消するとともに、内的ー外的という対立をも解消する。なぜなら、自己実現をもたらす仕事に取り組む場合、仕事の大義名分は自己の一部として取り込まれており、もはや世界と自己との区別は存在しなくなるからである。内的世界と外的世界は融合し、一つになる。同じことは、主観ー客観の二分法についても当てはまる。

***

有名な、欲求のピラミッドみたいなやつを考えた人の書いた本です。書店ではほとんど見ることはないですが、、、自分は某社長から譲っていただきました。

これは読むと良いかも


無我の境地については、以前のエントリ「アフォの境地」をご参照ください。参照したからと言ってどうということはないですが。

***

そういえば昨日のエントリについては、各方面から大きな反響がありました。
実際に責任を負ってやっている方の意見は、言葉の重さが違います。

 もう一つ、「バリュー・ファースト」のマインドが生む大きな効果は、「バリュー・ファースト」のマインドは、その人の心にプロフェッショナルとしての強い矜恃を植え付けるということだ。自分は金のために仕事をしているのではない、パンのために働いているのではない、と思うことは、人としての尊厳の上で極めて貴重なことである。

(中略)

 プロフェッショナルとしての矜恃は、その人の表情に表れる。立ち居振る舞いに、言動すべてに、人格・人品に表れる。そして、それらはすべて作品として提供された価値そのものになるのだ。

(中略)

 松井証券の社長である松井道夫氏は、「給料をもらって働く人間は要らない。働いて給料をもらう人間しか要らない」「給料をいくらもらったから働くというのは奴隷と同じである」と述べている。
 給料がいくらだから、それに見合った労働力を提供する、というメンタリティは、人生最大の資源であるはずの時間を、給料に見合ったかたちで「切り売り」していることにすぎない。
 提供すべき価値とは、給料に見合うだけの時間の切り売りでは決してない。価値は、「量り売り」できるものではない。価値は、出し惜しみすべきものではない。

(中略)

 生み出す価値を最大化するために、我々は意識的に給料の存在を忘れる必要があるのだ。それは、決して簡単なことではない。完璧に忘れ去ることはもちろん不可能だ。しかし、アンカーにつながった鎖を自らの意志で断ち切り、給料の存在を忘れることができた人こそが、アンカーのくびきから逃れ、提供できる価値を最大化することができる。そして、その結果こそが、長期的に受け取る給料の最大化というかたちとなって表れるのである。

***

なんとなくメモ。という量じゃないなこりゃ。
Atokのお試しライセンスがそろそろ切れる。。。

このページのトップヘ